顕正会が正しい証拠を全く示せない「証拠主義」

顕正会員は昨今、基礎教学書なる書籍のチラシ(広告)を人々へ配布しています。
顕正会のインチキ書籍の宣伝ビラ

これは会員の間で「魔法のチラシ」ととなえ、その所以は、「このチラシを読んだ人は魔法にかかったように入信を切望する」という現象が見られるからだそうです。

「魔法」とは、まさしく「仏法」の対極にあるものということなのでしょうか。
いずれにせよ、勧誘の成果を渇望する(渇望するよう仕向けられている)会員たちが、より多くのチラシを購入することを促すための誑言であると解釈できます。

そうです。
顕正会が”良いもの”であるなどと思えてしまう人は、まさしく「魔法」すなわち「魔の力によって正常な判断力を奪われている」のです。

なんとなれば、このチラシにも「顕正会が正しい集団である証拠」なんてひとかけらも出てこないのですから。

以下には、この宣伝ビラの内容がいかほどに中身の無いものであるか、つぶさに観察してみたいと思います。

顕正会の「日蓮大聖人の仏法」宣伝ビラのコピー

日蓮大聖人はいいけど、顕正会との関係は?

釈迦牟尼仏(お釈迦様)が「唯一真実の経」として説いた『妙法蓮華経(法華経)』は、実は2500年後の末法(今の時代)の人々のために説かれたものとされます。

その末法の時代の救いを成すために、お釈迦様は一番弟子の上行菩薩へ法華経の秘義を伝承します。
そして、「上行菩薩が末法の世に法華経の行者として現れる」と、法華経にあらかじめ予言していました。

さて、この上行菩薩が日蓮大聖人であり御本仏(実はお釈迦様よりも上位の仏様)だということなのですが、この教えは、日蓮正宗に代々伝わる伝統教義であって、「教義違背」を理由に日蓮正宗から破門された浅井昭衛のことは、むしろ「日蓮大聖人に背いた人」と捉えるのが穏当のはずです。

[人生の目的は成仏にある]
(前略)
日蓮大聖人の仏法を実践すれば、いかなる人も宿命が変わり、現世には幸いを招き、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得る。これが成仏の境界である。


上記の文字の色が変わっている部分は、くだんの宣伝ビラの最初の小見出し以下です(以下紫色の文字部分は同様にビラからの引用)。

日蓮大聖人を「御本仏」と仰ぐのは日蓮正宗の独自の教義であり、浅井のかかる言い草もそれを踏襲したものであり、何の変哲もありません。

重要なのは、では日蓮正宗では日蓮大聖人の仏法を実践していないと言うのか、という点です。

実はそれが顕正会の”売り”であり、「日蓮正宗は堕落したからダメだ」と主張して見せ、「堕落した親父と袂を分かち、純粋な心をもつ息子が正義のために立ち上がった」のようなイメージを与えて、人を集めようというわけです。

いわく、「日蓮正宗は国立戒壇という御遺命を捨てたゆえに謗法の集団に堕した」と、「日蓮正宗では、大御本尊は秘蔵するという伝統教義を捨て、金儲けのために大御本尊を大勢に拝ませているから謗法だ」ととなえるのです。

これらは実に空しい邪説です。
すなわち、全く真実ではないのです。

まず、「国立戒壇」は「日蓮大聖人の御遺命」などではありません。
日蓮大聖人はもとより、日興上人も日目上人も、そんなことは言っていません。 歴代上人の中で、わずかにお四人が「国立戒壇」を口にしましたが、これは、当時の天皇陛下(主権を有する天皇)に「戒壇堂の建立を発願してもらう」という趣意で使われた言葉で、顕正会の言う「国費で建設する」という含意はありませんでした。
この状況から見て、「国立でなければ謗法」なんて、突拍子もない妄言と言わざるを得ないのです。

こんな主張をすれば、むしろ「教義違背」となり、改悛しなければ信徒資格を抹消されるのは当たり前でしょう。

「大御本尊を見せるのは謗法」は、もっといかれています。
普通に考えて、「仏様」がそこにいるのに拝めない、なんておかしいのです。

事実、浅井も何十回、いえ何百回も大御本尊を拝んでいます。
浅井が日蓮正宗にいるころ、連中(妙信講)の機関紙『冨士』には、「御開扉」に関する記述が無数に見えますし、浅井親子だけでなく講員らも当たり前のように御開扉を受けていたことがわかる記述が頻繁に出てきます。

それもそのはずで、日蓮正宗では、ことに現代にいたっては、「御開扉」は信徒であれば誰でも許された、いわば「基本行事」だったのです。

この事実がある以上、今の浅井が言うことが真実ならば、浅井らが日蓮正宗にいるころから日蓮正宗は謗法を働いていたことになり、浅井らも謗法を共に犯していたことになってしまいますが、浅井はそのことを肯定するつもりなのでしょうか。

今の浅井が殊更に「御開扉」を非難するのは、自分が大御本尊を拝む資格がないことに対する”抵抗”あるいは”やっかみ”であるように思えます。

浅井顕正会の普段の主張、言い分からして、上記引用部分の言い草は、「ルイヴィトンの偽物販売業者が、ルイヴィトン社を宣伝している」姿になります。

ところが、何を考えているかと思えば、「ルイヴィトン社は堕落したので、今は当社が本物のルイヴィトンを販売しています」と言い出すわけです。

これは噴飯もの、失笑ものと言えると同時に、仏様と人類に対する重大な犯罪です。

臨終まで判らない?「信仰が正しかった証拠」

--前の続き--
(中略)
仏法は空理・空論ではない。すべて証拠を以て論ずる。
その証拠とは臨終の相である。臨終は一生の総決算であると同時に、臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報が現われる。
(中略)
ゆえに日蓮大聖人は
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。
善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。
又軽き事鵞毛の如し、やわらかなる事兜羅綿の如し」と。(後略)


「仏法は証拠を以て論ずる」とはまさしくそのとおりで、顕正会の教えとは正反対ということなのですが。

浅井は厚顔無恥にも、「顕正会は正しいという証拠があり、それが会員たちの臨終の相だ」と、顕正新聞紙上でも毎回うんざりするほど書き立てていますが、これを信じることができるものでしょうか。

要点は、成仏すると(生前の信仰が正しいと)、
・色が白くなる
・重さが軽くなる
・半口半眼の眠っているような表情
・死後硬直を起こさず柔らかい
という特徴を遺体に見ることができるとされ、これはお釈迦様が言ったことで、日蓮大聖人もこれを踏襲しています。

ところが、「眠っているような安らかな死に顔」という言い方は、世間のどこにもある慣用句のようなもので、たとえ顕正会員がそのような死相であったからと言って、「顕正会だけが正しい」という「証拠」とは少なくとも言えません。

「白い」と言って、遺体は血の気が引いているのですから白いのはむしろ当たり前です。

また、「軽い」とか「柔らかい」とかは、客観的な計測データが無いのですから、その遺体が特に軽かったとか柔らかかったとは言えないはずです。

こんなあいまいでぼんやりしたことを「証拠」と言われたのではたまったものではありません。

日蓮大聖人が、臨終の相については”基礎理論”としてさきのようなことを言ったのは事実ですが、「それが絶対の証拠である」なんて書いてはありません。

むしろ、「但し法門をもて邪正をただすべし(唱法華題目抄)」と仰せられ、「現象だけを見て判断するのは危険だから、信仰の正しい誤っているを判定するには、仏の説く信仰の仕方に適っているかどうかを確かめなさい」と御指南あそばされています。

考えてみればもっともな話で、顕正会が喧伝するような「成仏の相」「病気が治った」「仕事で成功した」「良縁に恵まれた」などということは、むしろ顕正会外で頻繁に起きていると言ったほうが適当でしょう。

それが「正しい信仰の証拠」であるならば、連中がいきり立って否定する寺でもキリスト教でも、創価学会でも立正佼成会でも、もちろん無宗教でも「正しい」ということになってしまい、結論としては、この論説により浅井昭衛は墓穴を掘っているだけとしか言いようがなくなってしまいます。

日蓮大聖人の仏法(本物のほう)を信行する功徳とは「六根清浄(御義口伝)」であり、正しい智慧(知恵)を得ることにより、その結果として幸福な果報があるのですから、「結果(果報)」だけをあげつらって「正しさ」の「証拠」など浅薄な論に走れば、オウム真理教において「俺のばあちゃん、眠っているような安らかな死に顔で、棺桶もえらく軽かった」と言った瞬間に、黙らなければいけなくなるではありませんか。

やはり、顕正会が何万遍「成仏の相」を喧伝したところで、これはどこまでも客観性に乏しく、顕正会の正しさの「証拠」としてはあまりにも説得力に欠けると言わざるを得ないのです。

重要なのは、顕正会の教えは日蓮大聖人の教えに明らかに違反しているという事実です。
血脈否定、僧侶誹謗、本尊自作、五座の勤行廃止等々、数多あるのであり、顕正会の総てが謗法と言っても差し支えありません。

大聖人の御指南通りに、「法門をもて邪正をただ」すならば、顕正会が「邪」であることは断定できるのです。

日蓮大聖人は元寇を予言⇔浅井昭衛は”起こらない事”だけを予言

[立正安国論の予言的中]
(後略)


『立正安国論』は有名な御書の一つで、要旨は、

・お釈迦様は人々を救うために『法華経』を説いたのに、今の仏教は全てそれに背いていて、仏教以外の教えも須らく法華経に合致していないから、お釈迦様が企図した”幸福な世の中”が実現していない。

・ 法華経のこころに背く信仰をしていると、正しい教えを伝えようとする聖人はその場を逃れ、善神も去ってしまうので、かわりに悪鬼魔神が寄ってきて、その場に災厄をもたらす。

・災厄にもさまざまあるが、最悪の難は「他国侵逼」すなわち外国に攻め滅ぼされてしまうことである。家を焼かれ人々も殺されてしまえば、この国に幸福は金輪際訪れない。

日蓮大聖人は、難をまぬかれ安穏な日々を送りたければ、国を挙げて正法(法華経)を信じるようになる必要があると説きました。

そして、そののち元寇が現実のものとなり、これを見た人々は、内心では「日蓮の予言が的中した」と驚いたわけです。

立正安国論の奏上も元寇も史実であり、日蓮大聖人の予言が的中したのも須らく史実です。

しかし、これらは顕正会の教えとは何の関係もありません

なんとなれば、顕正会の教えは法華経でも大聖人の教えでもないからです。

「今こそ国を挙げて法華経を信仰せよ」→「国教化」「国立戒壇」。
「他国が攻めてきて国が亡ぶぞ」→「北朝鮮や中国が攻めてきても顕正会に入っていれば助かる」。

という具合に、浅井の都合のいいように巧みに話を捻じ曲げているのですから。

ところで、浅井昭衛の”一回も当たったことがない大予言”は、ちかごろは鳴りを潜めていますが、当然でしょう。
またぞろ外れれば、世間から何を言われるかわかりません。

昨今、地震も熊本、島根、大阪そして北海道と立て続けに起こり、雨による災害も未曽有のものとなりましたが、浅井は、、”実際に起きる(起きた)こと”は一回も予言できていないのです。

これは実は日蓮大聖人の”猿真似”なのでありまして、
「他国の侵攻を予言」→「元寇」→「撃退」→「日蓮あるがゆえに善神が護った」、というのが、これが日蓮大聖人の予言です。

「小田原地震が今年間違いなく起きる」→「ピクリとも揺れない」→「浅井先生の祈りにより回避した」、と、顕正会ではこう来るわけです。
ただ外れただけ、幼稚園へ上がる前の子供でも言えます。

それでも浅井は、性懲りもないと言うべきか、「2029年までに顕正会の信者は日本人口の大半を占める」という趣旨の「予言」をしました。

外れ率100%の過去の予言と引き比べても、「いちばん当たりそうもない予言」と思えるのは、私だけではないでしょう。

2029年になれば、浅井は97歳、さすがに生きてはいないと自分でも思うのでしょう、「うそのつきおさめ」とでも思っているのかもしれません。

たとえ生き延びても、今までのようにしらばっくれてまた別のことを言い出せばいいと思っているのかもしれません。

こんな輩に手玉に取られているようでは、なにもわからず迷い道をさ迷い歩きつづけることになるのは当然です。

「死刑執行失敗」の奇跡を悪利用する顕正会

[国家権力も御頸切れず]
(後略)


日蓮大聖人は、ご自身が御本仏であるからと言って、鶴の一声で人々が従うとは考えていませんでした。
鶴どころか、当時の世の中で大聖人は、最も身分の低い階級に生まれていたからでもあります。

立正安国論によって諫めを受けた国主は、日蓮大聖人の声に耳を傾けるどころではなく、「世を乱す危険思想の持主」として死刑に処すことを決定します。

この死刑確定は、邪宗の悪僧らの讒言(嘘の告げ口)によるところが大きいと言われます。

首切り場へ向かう道中、日蓮大聖人は八幡大菩薩を叱責しますが、これは月に住む大月天王に対するメッセージになっていました。
果たして大月天王は光球を飛ばし、死刑を中止に追いやります。

諸天善神の一人である大月天王が、法華経の行者を護るという約束を果たした姿でした。

日蓮大聖人は、諸天がご自身を護ることを確信していながら、ご自身が「末法の法華経の行者」すなわち御本仏であることを、無智の人々に対し明確に示したのです。

ただしこの逸話も、もちろんのこと顕正会とは関係ありません

オウム真理教が「空中浮揚」で人々をたぶらかしたように、浅井昭衛も「奇跡」のエピソードを借用して人々を驚かそうとした、そして自分に箔をつけようとしたにすぎません。

顕正会は、「危険思想の集団」として公安からもマークされ、世の人々からも訝しがられていますが、これはごく当たり前のことにすぎないのであって、大聖人のように「まともに議論してもかなわないので讒言によって陥れられた」のでも、まして「卓越した見識を持った優れた人だからかえって疎まれた」のでもないわけです。

浅井はただの狂った悪人であり、顕正会そのものも須らく同様の邪悪な集団です(信者に悪気があるかないかは問題ではありません)。

自身の思想を広めたいなら、”オリジナル”を標榜すべきなのに、「日蓮大聖人の仏法」などと自分の思想とは似ても似つかないものを引っ張り出してきて、しかも、初めはその仏法を語る体を装いながら、浅井昭衛の考えた「ニセ仏法」と挿げ替えていくのですから、これはけっして赦すことができない、宗教的、社会的、人道的な大犯罪と言えるのです。

「日蓮大聖人」を隠れ蓑にして嘘をつく浅井昭衛

[残された時間は少ない]
大聖人は流罪の地・佐渡の雪中において
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
と叫ばれた。すなわち、日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決するということである。
いま世界は核兵器使用の第三次大戦の瀬戸際にあり、人類は絶滅の危機に瀕している。その中で日本は軍事超大国・中国の侵略に脅えている。
この国に大慈大悲・絶大威徳の御本仏ましますを無視し、背き続けたゆえに、いま日本は亡国を招かんとしているのである。
この大国難には、日米安保も第九条も虚しい。
今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。


さて最後の小見出し以下は、まさしく邪教顕正会の、魔師浅井昭衛の”真骨頂”が顕れます(顕嘘会)。

文としてはなかなかうまく書けていると言えなくもありませんが、日蓮大聖人のお言葉を挙げ、国際情勢から中国の侵略行為に触れ、「日蓮大聖人の教えに今こそ耳を傾けよう」と叫ぶ姿の中に、ちゃっかり「国立戒壇」という浅井の独自思想(もちろん大聖人の教えにも伝統教義にも無い)を出してきました

日蓮大聖人の教えをよく知らない人の中には、「日蓮さんを慕えば、その慕う心が信仰なんじゃないの?」など言う人もありますが、実はこれは誤りです。

日蓮を用ひぬるともあしくうやまはヾ国亡ぶべし(種々御振舞御書)」

上掲は日蓮大聖人のお言葉で、これは、大聖人のお言葉を曲げて解釈したり、まして自分の利得のために利用するなどは、大聖人が命懸けで破折した邪宗邪教と変わりがなく、邪教を信仰することによって人が衰え国を損なうのと同じ理由により、人々は不幸になりつたない結果となる、というお示しです。

この「用いぬるとも悪しく敬う」の実体例として、日蓮宗、創価学会、顕正会、立正佼成会などがそれにあたります。

結論すれば、顕正会の信仰をすればその人たちは不幸となり、もし国に広まればその国は衰える、ということになります。

そんな宗教団体の教祖や信者たちが、「顕正会以外の宗教は邪教だから不幸になりますよ」なんて叫んでいるのですから、これは生半可な誤りではなく、おそらく最も重大な宗教的犯罪(謗法)であると言わざるを得ません。

”うそつき”がよく犯すミス=「蛇足を言ってしまう」

amazon第1位
2017.9.12
日蓮宗(一般)関連書籍


1日だけ、こんな狭い範囲で1位なんて、わざわざ書くことではありません。
おそらく3冊も買えばその日は1位になりそうです。

新宿駅東口の紀伊国屋書店にも置いてあると喧伝されましたが、その店内で見つけたという声は聞こえてきません。

本当に売れている本ならあちこちで見かけるはずです。

Amazonの最も狭い範囲で1日だけ1位だったなんて、売れてませんと言っているようなもの。
こんなことを書いてしまうのも「魔性に頭脳が狂わされている現証」なのではないですか。

顕正会のインチキチラシ解剖~まとめ

※ 「日蓮大聖人の教え」と「浅井昭衛の教え」は全くの別物である。

※ 「日蓮大聖人の教え」を顕正会では守っていないし実践してもいない。

※ 「日蓮大聖人の教え」のいずれに背いているか、素人には一見わからないようにしてある。もちろんこのチラシには書いていない。

つまり、このチラシにはいちおう「日蓮大聖人の教え」やエピソードが引用されてはいるので、「日蓮大聖人の教えを信じ伝えているのが顕正会なのか」と思ってしまうかもしれませんが、入会した後、私がここに書いたことの意味が解る、という仕組みになっています。

ただし、顕正会の外から正しい情報を取得しなければ、永久にその誤りには気づくことはできません

くれぐれもご注意ください。

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